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オブレート会死亡名簿
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オブレート会死亡名簿日本-1956-1996
私が日本に着いたのは、1956年9月19日でした。2年間の語学研修を終え、何回かの短い仕事の後、1962年9月1日に池田教会の助祭に任命されました。1964年9月20日、主任司祭だったシモンズ神父様が高知教会へ移られて、私が池田教会の主任司祭になり、1988年に中村教会に移るまでの間、2回、助祭が短期間いた以外は、私一人でした。池田は四国山地の南方から北へ流れていた吉野川が東に流れをかえて徳島市へと向かう、その曲がり角にある、地方の町です。池田の地形は、川沿いの狭い谷間以外は、ほとんどが山ばかりで、池田教会の教区は、その山々すべてを含むとても広い教区でした。 私たちの伝道活動は、まず、あちこちの学校を訪問し、地域の人々の為の英会話教室や子供会を作ることから始めました。私たちは、この活動で手一杯でしたが、それでも私は、教区の隅々まで訪れようと決めていました。時間が取れると、朝早いバスに乗って山奥の終点で降り、そこからキリスト教のビラをまきながら、歩き周り、最終のバスで帰ったりしていました。中村でも、ほぼ同様の活動をしていました。多分、少しゆっくりになったでしょうが。 私はデスクワークは得意ではないのですが、幾つかの学園で数年間教えたことがあります。教区の活動には直接関わりませんが、高知の聖母学園では、スペイン語を教えました。その後1975年から1984年まで善通寺の四国学院大学で、初めはフランス語、後にドイツ語とスペイン語を教えていましたが、1983年〜1984年の学年末でやめました。 その後、司教様の御指示で、高松の南の綾南町に新しく出来たキリスト教共同体のお世話と、香南町にあるドミニコ会の観想修道女会(神の母マリア修道会)で御ミサを行うことになりました。1985年3月からは、司教とオブレート会管区長とのお話し合いによって、週の半分は綾南町に、もう半分は池田にいるようになりました。 この頃、池田教区では全く予想もしなかった新しい事が生じていました。池田には、1980年からフィリピン人女性の芸人たちが定期的に滞在していましたが、1987年には、日本人と結婚したフィリピン人のお嫁さんが6人、池田小教区のはずれの南の山地にやってきました。私は彼女たちと役所の人達との問に立って、諸手続きなどのお手伝いをしました。どちらも相手の言葉がわからず、また、相手の習慣についての知識もありませんでしたから、通訳したり説明しなければならない事が沢山ありました。全てがうまく行ったお陰で、フィリピン人のお嫁さん達は私に感謝してくれましたし、信頼してくれるようになりました。それからもさらに多くのフィリピン人女性が日本人と結婚して、教会の南から東まで教区のあちこちに住むようになりましれ後に私が移った中村でも殆ど同じ状況で、私はまた、お手伝いすることが出来、彼女達もとても喜んでくれました。 ジェラード・スティーブンス 編者 注この後、スティーブンス神父様は、健康上の理由から中村教会に一人でおられる事が出来なくなり、もっと大きな共同体である赤岡教会に移られました。そこでも、まるで本当の父親のようにフィリピン女性たちの世話をされました。神父様は、中村、赤岡、池田の顔見知りのフィリピン女性達を度々訪問されましたし、また、新しく日本にやってきた女性達にも助言をし、助け、教え、彼女達のキリスト信者としての求めに応じて霊的に助けられました。しかし、1996年5月10日、神父様は突然亡くなられました。彼女達は深く悲しみ、今も心から神父様を偲んでいます。 |
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