Main > ホームページ > オブレート会死亡名簿> Bro. 津田 季穂

オブレート会死亡名簿

オブレート会死亡名簿


(OMI)-1953-1981

Bro. 津田 季穂

ミッションというオブレート会の雑誌の1950年9月〜12月の275号に、
  ロビタイ神父は次のように書いた。


日本のある諺では、『日光を見ずに結構というなかれ』と。この有名な地域は東京から65キロぐらい北の方にあるが、そのように評判が高い。帝の国を訪れるなら、日光に行かなければ非常に心残りである。この町は素晴しい山の風景に囲まれて、人気のある休暇の場所である。絵のような美しい自然だけではなく、多くの神社の彫像の著しく素晴しい技巧のために知られている。確かに、日本を訪れる観光客は必ず日光を見るべきである。

こういう環境の中で、1899年11月23日に当地の医者の息子として、津田秀穂は生まれたのである。津田夫妻は日光ではとても有名だった。教育のある、教養を有する裕福な日本の中流クラスの代表格だった。彼等に6人の子供が生まれた。秀穂は5番目である。

彼は安定した家庭の保護的な配慮の中で、日本の伝統的な環境で育った。日率という社会では、特に家庭に関しては、何世紀もの昔からすべての側面で厳しく細かく決められていた。家の頭は明確な決まりと習慣に従って、家人の意見を聞いても聞かなくても、自分の息子や娘のことなら絶対の権力を持ち、決断を下すのである。これは子供のころから結婚相手を決めることまでである。

季穂は若い時に、東京の私立の学校に送られた。この時期は平穏な時期である。特別に何もない。だが、ユ7歳になった時に思わぬ事故にあい、それが自分の将来に大いに影響を及ぼした。

父親の助手をしていた同居人が猟に行き、その帰りに、不注意にも季穂の方に向かって銃の引き金を引いた。良くあることだが、不幸なことに鉄砲にはまだ玉が入っていた。そのために、季穂は右眼に猟銃の玉を受けた。季穂は生き残ったが、目だけは完全に打ち砕かれたのである。

他の影響もあった。長いリハビリの後で非常に敏感な性格を持つ彼は・復学した時、情のない仲間に笑われたことが度々である。こういう思いやりのない環境に耐えられなくて、間もなく退学したのである。それに別の方面に興味を持っていた。長い月日のリハビリの間に、時間つぶしとして絵を描くようになっていた。しかも趣味になった。そして早くも美術の魅力に引かれて、その勉強をしようと決断した。日本美術アカデミーに願書を出した。その学校は開校したばかりで、日本の学生に西洋の美術を紹介していた。もちろん、家の反対はあった。なぜかというと、当時日本では美術というものは社会的にはタブーであった。やっと条件付で許可をもらった。その条件は上記のアカデミーに合格することであった。簡単にその条件を果たした。5年間そこに通学し、一流の美術家になった。もう少しそちらで勉強しようと思ったが、その学校の創立者が亡くなった時に、学校の内紛で学校がつぶされた。しかし、学校として短い存在であったにも関わらず、当時の日本の美術界に多くの影響を及ぼした。美術家の中にその学校の卒業生は多い。

その後、季穂は良く描き、よく本を読んだのである。当時用のない時期だったので、ますます読書をする願望や、より高男な知識を得たいという渇望を満たす機会となった。それはキリスト教の信仰に導いてくれた。

彼にとって、読書の中で一番魅力的だったのはケーベル先生のものだった。ケーベルはカトリック信者で、当時東大の先生をしていた。ケーベルの書物はカトリックの教えを強く伝えて、美術家である季穂の心に訴えるものがあった。これは彼が確かにカトリックの教えを受け入れた原因の一つである。

しかし、一番の原因は幼いイエスの聖テレジアの白伝である。これが⊥彼を教会の門まで導いたのである。この時点で、面白いしかも感心、を呼ぶエピソードがある。このエピソードは本人の人柄と美徳を理解するために大事である。フランス人の宣教師から普通のキリスト教の教義を習い始めていた彼・熱心な求道者は、師イエスの跡を辿る誠実な願望があることを証明.⊥するために、神からの特別な十字架を願った。間もなく、右脚そのうちその脚が動かなくなった。手術や長いリハビリをしても良い結果はなかった。ただ洗礼を受ける日を遅らせただけだった。ついに1943年7月18日に、44歳で東京にて津田季穂はカトリックの洗礼を受けた。幸いでめでたい日となった。というのは、その日に次のような決心をした。残りの一生を彼に残った唯一の道、ろまり伝道士として身を捧げたい、という決断だった。

東京とその周辺で、ますます空襲が激しくなったので、都内は住める所ではなくなった。従って、津田氏は友人のいる四国の鳴門に移った。点々と徳島や高知にも滞在するが、必ず鳴門に戻る。そこで多くの改宗者が生じてくるので、独立した巡回教会になる。1950年に42人のカトリック信徒がいた。

1949年、オブレート会が四国に来るようになった時に、徳島の宣教師は有能な伝道士が必要となった。もう既に巡回教会で立派に努めていた津田氏に頼むのは当然だ。下宿の問題が解決さ札津田氏は喜んで徳島の伝道のために移住した。主任司祭の主任伝道士と灘嚢・1騒…こうい州剛皮の優れた教え方を鮒て・鶴周辺や鳴繁.門周辺の広い範囲で人々が恵みを受けた。何年か前に脚が切謡塞’断されていたにも関わらず、四方に信仰を伝える為に旅に出る。町でも田舎でも、キリストとその救いのメッセージを知りたい人は安心して学ぶことができた。

有能な伝道士は宣教師の右腕だ。しかも、その伝道士が同時に優雅でとても謙遜で忍耐強い分別のある、そして熱、こ、で敬愛な人なら、宣教師は喜ばないでいられない。徳島の主任司祭は神に感謝している。そして多くの信徒が増えていることは神の摂理の次ぎに、この伝道士によることだ。

ヨゼフ津田季穂は修道士としてオブレート会に入った。1952年12月8日に、彼は修道士になるために修練期を始め、ユ959年の同じ日に、終生誓願を立てた。とても有意義な生涯を終えて、1981年7月23日に永遠の報いを受けた。

レオナルド・ロビタイ