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紹介

オブレート会の紹介

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この新しい宣教地区は1948年6月4日第一アメリカ管区(後に東管区と改名)に任命された。この管区の当時の管区長のロビンズ神父は次のような演説をした。

「皆さん、法令の第4章に特に注目していただきたい。この法令は、日本宣教地区が第一アメリカ管区と行政的に統合されることに関するものです。この新たな宣教地区と宣教活動に自らの生命を捧げる本会会員に対して、私達の負う責任が過大なものであるという現実に、この法令は直面させてくれます。新しい宣教団の6人の先駆者は、宣教の場を得た喜びを長く継続させながら、自らの心身を修練することでしょう。彼等の才能やまた彼等の聖職者としての品性に対して、私達は永遠に誇るべきです。

私達の内誰一人として、彼等6人の先駆者達のことを忘れることは出来ません。それは彼等が第一アメリカ管区をはじめ、管区に属する全ての修道者に絶対的な依存の状態にあるからです。もし聖務が、神の目的と宣教師と彼等のキリストのために全てを捧げるという堅い意志しかない状態でなされるのであれば、まさに今がその時です。これからあと神のご加護のもと、カラシ種のように成長するであろう営みに対して、私達には管区において、資金を調達するという重大な使命があります。それにこれからはより多くの日本という宣教地に行きたいという志願者達が必要となるでしょう。ともかく私達は、まずその任地へ行く使徒を捜さなければなりません。私達は兄弟に対して責任があります。」

1948年11月1日の諸聖人の祝日に、最初の宣教師ロバート・ギル神父、レオナルド・ロビタイ神父、チャールズ・マクベネット神父がテキサス州ガルヴェストンから『アルメリア・ライクス号』に乗船した。その船は翌日の夕方錨を上げて出航し、「日出づる国」を目指して夕暮れの中を進んで行った。

船は1948年11月29日の正午、神戸港に着いた。その日の午後、税関を通過するのに非常に手間取ったが、通訳のレモン・フロアデヴォー神父のおかげで無事手続を終え、その日の夕方神父達は西宮の司教館に着いた。一行はそこで軍隊用簡易ベッドのある一部屋をあてがわれた。

その時の様子をロビタイ神父は次のように日記に書いている。「身を刺すように寒い。部屋にあるちっぽけな暖炉を除いては他に暖をとるものは家の中には何もない。沢山のことがおかしく、談笑しているうちに疲れが加わり、やがて眠った。翌朝7時頃起きると、凍死するかと思うほど寒かった。服を着て顔を洗うときもそうだった。聖堂でミサをあげる時には指がかじかみ、昨夜の陽気な気分もその時にはもうなくなっていた。」

西宮から神父達はすぐに豊中(大阪近郊)へ移動し、戦時中司教館として使われていた家に入った。その週のうちに、オブレート会に委ねられることになった任地の高知や徳島へと出発した。

12月3日、神父達は船で5時間かけて瀬戸内海を通って大阪港から徳島の南に位置する小松島港へ渡った。その時徳島の主任司祭であったフランシスコ田中英吉神父が彼等と同行した。

「12月3日正午の時刻と共に『アキツマル』は神戸に船笛で別れの挨拶をして四国方面に向かった。本会の宣教団として、初めて四国の本会に委ねられた土地に足を運ぶ。下見のつもりで私はギル神父とマクベネット神父と三人で行った。その当時知牧区長であり、徳島の聖パウロ三木教会の主任神父である田中英吉神父が同行した。

5時間後、徳島に着き、司祭館が小さいためホテルに泊まった。これはまた想像できない程の傑作な新しい経験になってしまった。

注意:アロミの1949年6月号に次のように書いてある。オブレート会は最初高知県だけを宣教地として依頼されたが、新しい地区も受け持つことにした。それは徳島県である。

その時もデシャトレー総長の有名な言葉が思い出される。つまり「他の修道会が行かなければ私達こそ行かなければならない」という。そして、アロミの1949年の8・9月号では似たような考えがある。最初は他の修道会が徳島に行くことを断って横浜司教区に行った時、ギル神父は「最も困難な宣教地の専門家」という題名で次の文章を書いた。「司教は私達も同じように断るのではないかと心配していた。しかし、すぐに安心させた。来日した時に四国は困難な宣教地だと知っていたが、難しいからこそオブレート会はその挑戦を受けたことを司教に伝えた。なぜかというと、この修道会は『最も困難な宣教地の専門家』と教皇から名付けられたからである。だから私達の喜びはできるだけ早く活動に移したい、と伝えた。」

先ず、司教からオブレート会に委ねられたその地方の唯一のカトリック教会が置いてある徳島市について述べよう。

四国の4つの大きい町の一つで人口約10万人程である。戦争の時に90%破壊された町だが、殆ど再興されている。カトリック信徒は少ないが、ここでも増えるだろうと確信している。12月5日は日曜日で、ギル神父は教会の皆さんに話をした。彼等の間にいる喜びを語り、将来のための希望を話した。

徳島から汽車で高松経由で高知に行った。60キロ離れた高松まで2時間30分かかったが、楽しい旅行になった。秋のとても奇麗な紅葉の山々や、美しい段になっている畑や、みかんの多い木々などは旅行を楽しくしてくれた。高松での乗り換え時間は4時間もあったので、そこの教会の主任司祭ドミニコ会のサンタマリア神父の接待を受けた。少ない時間の間、教会を訪れ今までの再建を見た。

高知への旅は暗くなってしまっていた。高知駅に着いたのは1O時過ぎで、思いがけない団体が迎えに来てくれた。」

12月5日、日曜日、ギル神父によってミサが立てられたあと、彼等は信者達に紹介された。その日遅く彼等は高知に行く途中、高松に寄った。彼等は新本町でそこに駐在しているドミニコ会のオレンチオ・ペレス、ステファノ武田義雄の両神父、そして愛子会の修道女達や教会に隣接されている孤児院の子供達によって歓迎された。

次の日、赤岡を訪れた。そこにはドミニコ会のドミンゴ・レデスマ神父が常任司祭として居た。

そこで一行は駐留軍の代表者のアースキンさん、市長の山本進さん、助役の鈴木さん、県議会議長の中山さん、ある高等学校の校長の吉井さんに会い、例外なく皆が私たちを歓迎し、これからの活動への協力を約束してくれた。

しかしながら、彼等なりにいろいろな方法で本会の宣教団を一番歓迎してくれたのはもちろん教会の信者さんである。当時高知市内の人口は12万人だったが、信徒は300人しかいなかった。

当時ロビタイ神父は次のように日記に書いた。つまり、「最初の日の夕方、聖体降福式の後教会で歓迎会があった。議会の唯一のカトリック信徒である吉松先生は、信徒の代表として歓迎の言葉を述べた。そして、田中英吉神父やドミニコ会の武田義雄神父も話をしてくれた。ギル神父はそれに応えた。昼間、学校と養護施設の子供たちのとても面白い民謡のコンサートを見た。その前に彼等から花束と果物と人形を受け取った。これらの施設の責任者は日本人ばかりの愛子会のシスターである。シスターたちの仕事は大変だが、勇敢にいろいろな問題にぶつかっている。とても貧乏な状態の中で、4人のシスターが200人の園児の幼稚園と65人の子供の養護施設を経営している。米国の人達が、ここではどんな古着でも使えるというこの状況を知ったとすれば、おそらく沢山送ってくれるだろう。

12月8日はオブレート会の特別な祝日である。無原罪聖母の祝日で、ギル神父の司式で荘厳なミサが行われた。私たちの短い滞在のふさわしい頂点となった。午後になると、多くの人が桟橋に集まって私たちを見送った。その出発の場面を描く前に一言言いたい。私たちの滞在の間お世話になったドミニコ会のステファノ武田義雄やオレンチオ・ペレス両神父と愛子会のシスターたち、そしてアースキン夫妻に感謝を表わしたい。

8日の水曜日4時30分に高知を後にした。多くの人が遠方から歩いてきていた。この親切な国民は桟橋に立って船の姿が消えるまで手を振っていた。胸がつまった。忘れられないシーンだった。夜の問に『トロシオマル』は大阪に向かった。」

四国の主要都市、高松・徳島・高知と松山は、戦時中爆撃によって、その90%が破壊されていた。教会の施設は全くの破壊状態か或いはそれに近い状態がのいずれかであった。前述の通り、新本町教会と赤岡教会はその難を免れたが、高知の主な教会は爆撃によって瓦礫の山と化し、何もなかった。そして徳島・高松では仮の建物が建てられていた。

1949年1月14日第二団の宣教師達、ウイリアム・マクロクリン、ティモシ・マルビーとレオナルド・スカネル神父達が到着した。日本における最初のオブレート会共同体は、その時点でスタートする準備が整った。

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