オブレート会の紹介
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創立の年
準備期間
1月17日、新しい宣教師の一行は、豊中市で今原氏の個人授業のもとで日本語の勉強を始めた。その指導は1949年10月25日まで続いた。今原氏の通訳としての奉仕が宣教団長のギル神父にとって必要とされていたので、彼はその当時もうすでに徳島や高知で被害を受けた教会の建設の準備に忙しかった。そのために、授業は中止、またはしばしば延期されていた。
1949年7月の最後の日曜日に、伊丹のクワ入れの式が行なわれた。新しい建物を使うことが出来るようになるまでの間、ずっと毎日曜日、前伊丹市長の岡田利兵衛氏の家でミサが行なわれた。1950年1月25日、伊丹の教会の聖堂は田口司教によって奉献された。マクベネット神父は主任司祭として、マルビー神父は助任司祭として、豊中から伊丹に着いた。その問、スカネル神父はアメリカに帰国していた。
豊中での日本語基礎コースは1949年11月に終了し、宣教師達は手に聖書と辞書を携えて各々の新しい任務へと赴いた。ロビタイ神父は主任司祭として徳島へ、ギル、マクロクリン両神父はそれぞれ主任司祭と助任司祭として高知(新本町)へ、またその他の3人は伊丹の施設が完成するまで豊中にとどまった。
再建活動
オブレート会が四国で福音伝道活動を行なうため、1949年12月4日、田口司教の手により荘厳なミサのうちに高知県・徳島県などの地区が正式に譲り渡された。ドミニコ会はヴィンセント・ゴンサレス神父(ドミニコ会管区長代行)を代表者とし、オブレート会はロバート・J・ギル神父(オブレート会管区長代行)を代表者とした。田口司教はドミニコ会に対して、1904年以来高知で骨を折ってくれた彼等の宣教活動に感謝し、また同時にオブレート会を歓迎した。
そこで宣教を委託された本会は、ベルギー国土(30,513平方キロ)の約2/3の広さを持つ四国全島(全面積18,794.29平方キロ)のうち、南半分の2県(高知県7,103.87平方キロ、徳島県4,143.18平方キロ)の宣教活動を引き受けた。当時1949年の島の人口は約400万人で、その大半がいずれかの派の仏教を信じていた。カトリック信者は少数派で約800人しかいなかった。
ドミニコ会は愛媛県(5,672.59平方キロ)において宣教活動を続けていた。一方四国四県のうち香川県(1,874.65平方キロ)では、教区司祭(1953年以降スペイン・ブルゴス会の援助を受けている)によって福音伝道活動が行なわれた。
オブレート会が宣教の地として受け入れた地域は基本的に田舎で、自然・地埋学的にも非常に山の多いところであったが、高知市・徳島市のそれぞれの中心に位置していた。これらの両市は1945年6月の空襲で完全に焼け野原と化していた。高知県内では、高知市内中島町教会が全壊、爆撃を逃れた小教区は高知市内にあった新本町教会と、高知市から東25キロのところに位置する赤岡教会であった。徳島県では徳島本町(市の中心地)に教会の所有する土地があったが、ここも同様に破壊され、その後部分的に再建された。また徳島市から西へ76キロ離れた阿波池田では、教会はすでに建っていたが、1940年以降活動が行なわれていなかった。
江ノロ
新本町;福者パウロ田中と妻マリア
高知市内にある新本町教会と赤岡教会は、1949年当時高知県にあるただ2つの教会だった。新本町の教会はJR高知駅のちょうど裏(北側)にある。この教会は奇跡的にも爆撃による火災をまぬがれた。1946年12月に起った地震では、教会の正面の門をひどく破壊された。
この小教区は、北は徳島・愛媛との県境までの30キロ、西は愛媛県境までの110キロにも及ぶ地域を包括し、もちろん高知市全域も包括していた。すなわち当小教区は全県の約半分から成り立っていた。中島町の司祭館の新築工事が終了した時、当小教区は2つに分割された。その時の領域は、高知市の北半分と阿波郡、そして北は徳島県境30キロに及ぶ山林地域になった。1949年当時、市内には約200人のカトリック信者がいたが、当小教区の統計調査によると、1996年1月1日現在、江ノロ小教区の信者数は183人である。
1972年3月、当時の本会に委任された領域の一部として残ったが、教区司祭であったジョン松永洋治神父が主任司祭となり、オブレート会の神父は助任司祭として仕えた。1996年8月、この司祭は移動したが、彼の代りに新しい教区司祭が2人やって来た。
中島町
無原罪の聖母
この小教区は高知市の中心地にあり、高知市役所・県庁から歩いて数分のところに位置している。当小教区は四国で最も古い小教区である。
パリ外国宣教会の宣教師達が最初に高知にやって来たのは、1882年2月だった。一行は1888年に、現在当小教区がある土地を手に入れた。1904年には四国全域がドミニコ会に委任され、知牧区として設立された。1915年、中島町の小教区所有地にドミニコ会は大きな赤レンガ造りの教会とみかげ石造りの司祭館を建てた。1945年6月4日、高知市街地が空襲にみまわれた時、教会と司祭館は戦火に包まれ、崩壊した。オブレート会は司祭館と幼稚園を建てた後、1953年当小教区を再開させた。
8月21日に中島町の新しい司祭館が出来上がり、ギル神父はその日に新本町から移った。
1958年末までは、幼稚園の講堂を教会として使っていた。1958年12月20日、立派なコンクリートの教会が建てられ、パウロ田口司教により「無原罪の聖母」の名のもとに正式に献堂された。翌日の12月21日、その聖堂で田口司教は司教司式ミサを捧げた。
当小教区は高知市南部全域と東部は野市までの15キロの範囲を含む。西は愛媛県境までの約150キロ離れたところまでに及ぶ。この西部地区は中村に小教区が設立された1977年に当小教区から分離した。1996年1月1日現在、中島町小教区の報告によると信者は353人いる。
赤岡
聖ヨセフ
この小さな小教区は高知県東部に位置し、高知市から20キロのところにある。当小教区は1933年ドミニコ会により設立され、当時の信者は35人だった。1935年幼稚園を建てたが、この幼稚園は1948年に町行政の意向により保育園に変った。だが、この保育園も1978年に閉園された。赤岡教会は教会の聖堂が改築され、また司祭館が新築された1963年まで安芸の巡回教会だった。当小教区の統計調査によると、1995年末現在の信者数は50人である。
徳島
聖パウロ三木
聖パウロ三木に奉献された徳島教会は、県庁所在地である徳島市の本町にある。最初の教会はドミニコ会によって設立されたが、戦争末期に破壊されてしまった。その後、仮の小さな聖堂とカマボコ形兵舎の司祭館がフランシスコ田中英吉神父の手によって建てられた。当小教区は1949年にオブレート会に委託され、当時徳島全域(4,143平方キロ)で活動していた唯一のカトリック教会だった。その他の残存する教会は徳島県西端の阿波池田にある。この教会は外国人(スペイン人)の宣教師達の通行を制限したり彼等を自宅監禁するために、1940年に閉鎖されてしまった。
1949年11月29日、田中神父に代ってレオナルド・ロビタイ神父が初代のオブレート会主任司祭になった。田中神父はその時高松の教会に行かれた。そして1963年四国が知牧区から司教区に昇格した時、田中神父は高松司教区の初代司教になった。
1995年現在、当小教区の全カトリック信者数は409人である。鳴門および阿南の小教区は当小教区が設立したものである。
阿波池田
王であるキリスト
この小教区は徳島県の西端に位置し、四国の中心部に広がる山林地区にある。オブレート会は徳島を宣教の地として受け入れた1949年に、この地の宣教任務に就いた。
1928年、この池田町においてドミニコ会が土地を購入し、1929年には幼稚園を開いた。また1933年に司祭館付きの教会と、伝道士のための家を建てた。しかし、何らかの理由のため幼稚園は閉鎖せざるを得なくなり、1938年には幼稚園と司祭館の建物が分解され、南の高知や赤岡などへ移転された。また常任司祭は松山に移動して行った。戦時中宗教活動は行なわれておらず、所有地にあった教会の建物は不法定住者に占領されていた。1949年には、これらの建物(教会と隣接する小屋)はすっかり荒廃していたが、1962年までずっとそのままに占領され続けていた。その当時までには、この地域は徳島小教区の宣教地となっていた。
池田小教区がかかわっている領域は、徳島県の山林地区の約1/4を占め、西は愛媛県、北は香川県、西は鳴門小教区や徳島小教区、南は高知県までのびている。1962年、池田教会は常任司祭のいる小教区へと昇進した。教会の建物はもはや直せない状態にまで荒廃していたので、1973年に建物全部を改築し、古い建物は取り壊した。1997年1月1日現在、当小教区の全カトリック信者数は30人である。
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