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紹介

オブレート会の紹介

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発展

新しい教会建設活動

新しい宣教師達が日本に来てまだ数ケ月しかたっていないが、その間彼等は新しいしかも難解な言語(日本語)を習得しようと試みたり、また四国への退屈な、しかも時間を費やすだけの旅行をして、彼等が受け継ぐことになるであろう教会の改築・修繕などの調査をしたりして過ごした。その時には、すでに新しい要求が彼等宣教師達の力を必要としていた。あらゆるところから彼等宣教師達は、福音伝道活動のために必要な基盤となるネットワークを拡大するために、新しい宣教活動を行って欲しいという要請を受け取った。

伊丹
王であるキリスト

一行がまだ豊中近郊で語学訓練を受けている間、オブレート会は伊丹市の前市長岡田利兵衛氏宅でミサをあげ始めていた。伊丹市は豊中市のちょうど南にあり、だいたい大阪と神戸の中間に位置していた。この市には、カトリック信者は何人かいた。まもなく田口司教からオブレート会へ伊丹市で小教区を設立したいという要請があり、この宣教団の一行が日本に到着して5ケ月もたたない1949年4月に、この新しい宣教活動のための土地が購入された。このクワ入れ式は1949年6月の最終日曜日に行なわれた。

幼稚園と司祭館が1950年1月24日、田口司教により祝別された。またチャールズ・マクベネット神父がその初代主任司祭となった。1966年聖堂が建てられるまで、幼稚園のホールが礼拝堂として使用された。当小教区は大阪司教区内でも最大級の小教区へと急速に成長した。その理由としては、教会での改宗や洗礼などの活動もあるけれど、その他に伊丹市自体が地方からの転入者が増え、急速に成長したからでもある。その転入者の多くは九州南部からの人々であり、長崎のカトリック信者達を沢山関西(大阪)地区へ移転させる要因となった。1996年1月1日の小教区全信者数は773人だった。

安芸
海の星の聖母

1951年高知県安芸市において、オブレート会は「海の星」小教区を設立した。この小教区は高知県東部での福音伝道活動の根拠地として役立つことを目的として設立された。ゆくゆくは将来修練期を過ごす志願者を収容することを見込んで、幼稚園と大きな司祭館を建てた。1951年の夏には、安芸の建物は居住できる状態にあった。レオナルド・ロビタイ神父がその責任者に任命された。マクロクリン神父は徳島の主任司祭として彼のあとを継いだ。パトリック・フレディとニコラス・ネビール両神父は6月1日、日本に到着していたが、日本語学習のため安芸へ派遣された。10月15日、ロビタイ神父は安芸教会の主任司祭として就任した。

11月1日諸聖人の祝日、マキシミリアン・デ・ファーステンバーグ大司教が田口司教と共に高松を訪れ、彼の初めての四国への第一歩を記した。ギル神父が彼等を出迎えに行き、彼は一行を愛媛県のドミニコ会の小教区に案内した。また一行は高知へも赴き、そこで大司教はいくつかの行事において司式者として務めた。一行は高知を発ち赤岡・安芸を訪れた。安芸では、教皇庁公使(彼が通常呼ばれている名)は11月8日に新築した建物を祝福する儀式の司式者として務めた。翌朝一行はギル神父と共に徳島へ赴いた。その当時まで高知市の新本町教会の巡回教会であった赤岡は、安芸に所属するようになった。

翌年1952年5月31日、ギル神父は安芸において教会法に基づく修練院設立に関する制令を公式に発布した。

1952年10月13日に日本に着いたジョン・バーレットとリチャード・ハーの両神父は安芸で日本語の勉強を始めたが、1953年の春に東京の六本木でフランシスコ会が宣教師のための日本語学校を開いたので、二人の神父はそちらの方に移った。これ以降、オブレート会の神父たちは六本木で勉強することになった。

安芸でその法的手続が始められた当時、安芸には一家族のカトリック信者しか住んでいなかった。当小教区の司牧する領域は、全長110キロある海岸線に沿って数百平方キロに及び、北は徳島県境の山林地区まで占めていた。

1995年の当地のカトリック信者数は43人だった。長年当地ではこの数の3倍以上の人が洗礼を受けてきたが、彼等は職を求めて本州の大都市へ移ってしまった。当小教区は室戸市の柳瀬と三津浜にそれぞれ宣教拠点を設けており、両地区はそれぞれ安芸の東部に位置している。

光丘
聖母の汚れなきみ心

1953年の春、福岡司教区のドミニコ深堀司教は福岡市の南に位置する那珂町で小教区を設立することを、オブレート会に依頼した。司教は土地を提供し、それから司祭館と聖堂建設が開始された。これはオブレート会が大阪司教区とその司教区に属する四国知牧区の外で行なった最初の宣教活動だった。それらの建物は1953年9月23日、深堀司教によって祝別された。ウイリアム・マクロクリン神父がその初代主任司祭となった。この地区は後に光丘と改名された。

1953年、当地には50人のカトリック信者が住んでいた。福岡市が発展したおかげで、この地区はすぐに人口密集地区となり、約8万人が当小教区内で暮らしている。1968年には、この成長するカトリック共同体の要求に応えて、新しいモダンな教会を建てた。1988年9月4日当時、940人を数える信者がいた当小教区は、福岡司教区へ返還された。

古賀
平和の元后

「平和の元后」小教区は1955年古賀(福岡司教区)に建てられた。古賀は福岡市街から東へ約20キロのところに位置する街である。深堀司教は那珂町でオブレート会が成功したことを快く思い、福岡市と北九州市との間の地域の橋渡しをするために、当市の東部に別の宣教活動の拠点を開くよう彼等に求めた。

ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿が、その全建物(教会・司祭館・幼稚園)を建設するための費用を用意した。松の木々を越えて約20メートルの高さにそびえる教会堂の尖塔は、国道高速3号線を行き来する人々にとって感動を呼び、人々を引きつける力となっていた。

ティモシ・マルビー神父がその初代主任司祭だった。初期の頃、福音伝道活動の多くは当地区の結核隔離病院の患者達に費やされた。カトリック信者数は1955年の20人から、1987年には470人にまで増加した。1998年現在、881人である。

鳴門
聖ヨセフ

鳴門の「聖ヨセフ」小教区は1959年に設立された。鳴門は徳島市から北東約20キロのところに位置している。当小教区の領域は吉野川北岸部から香川県境までの約60キロの範囲と、西は吉野川北岸の脇町までの約30キロの範囲をとる。

鳴門は長年にわたり徳島の宣教活動の巡回拠点だった。オブレート会がこの宣教地を引き継いだ1949年には、すでに20人のカトリック信者がいた。或る一人の伝道士ヨゼフ津田季穂氏の熱心な活動のおかげである。この津田氏は後に修道士としてオブレート会に入会した。

1959年2月2日、バトラム・シルバー神父がその新しい司祭館に移転し、2月16日には正式に主任司祭として迎えられた。2月27日、それらの新しい建物はオブレート会総長レオ・テシャトレー神父により祝別された。幼稚園のホールは1978年まで礼拝堂として用いられていた。

1978年には、宣教活動の場所が新しい所へ移転した。かっては落花生畑の真ん中にあったものが市内の繁華街の一角に移った。粗末な基盤やシロアリのせいで改築を余儀なくされていた。そのため、JR駅北側の新興住宅地に新しい建物を建設した。長年この地域は塩田の為の浅い池であった。当時は司祭館と幼稚園の隣に独立した聖堂を建てた。1995年には180人のカトリック信者がいた。当小教区では何人かの教区司祭を生んだり、またオブレート会員を3人育成した。

阿南
希望の聖母

宣教活動の拠点は1962年に阿南市の富岡町に設立された。阿南は徳島市から南へ約20キロのところに位置している。この小教区の司牧する領域は、約90キロにわたる四国の東海岸に沿って南は高知県境までのびており、また西は山林地区へ40キロ入っており、全面積は合わせて約3600平方キロの広さになり、徳島県の半分程を納めている。1962年の阿南地区のカトリック信者数は45人だった。幼稚園が1966年にこの地に建てられ、そのホールが礼拝堂として役立てられた。司祭館が建てられたのもちょうどそれと同じ年だった。ジョン・ケニ・マホ二神父が初代の主任司祭として駐在するようになった。

1993年5月5日、高松教区常任司教であるヨセフ深堀敏司教は、阿南の新しい教会を祝別し「希望の聖母」に奉献した。式はその教会建築当時主任司祭を務めていたリチャード・ハー神父が行なった。その教会の聖堂は約100人を収容することが出来る。阿南全地区の人口は約28万人いるが、1995年末にはカトリック信者数は87人だった。また45キロ南に位置する牟岐にも宣教活動の拠点があり、そこには6人のカトリック信者がいる。

中村
救い主キリスト

中村の「救い主キリスト」教会では、高知県の数百平方キロにもおよぶ南西地区全域を担当している。60年代初期、高知市の中島町教会から派遣された神父たちは、全長150キロもある土佐湾岸に沿うこの広い地区に点在する少数のキリスト信者達を毎月訪問し始めた。それは舗装されていない曲がりくねった山道をバスに乗って移動しなければならず、非常に神経の擦り切れるものだった。

1970年、ウイリアム・マヘル神父が中村市街地に小さな家を賃借りし、そこで住むようにした。1977年には、四万十川の支流うしろ川に隣接するJR駅の裏に、礼拝堂付きの司祭館が建てられた。香川県の面積よりも広い面積を有する当地区の人口は11万2千人だが、1995年のカトリック信者数は68人だった。

神の召し出し

修学院・修練院


初代の日本に於ける召命

日本に来て3年間のうちに、オブレート会は日本で最初の召命に恵まれた。その修練院は教会法に基づき1952年3月31日、安芸の宣教師達の活動の場として設立された。ここは聖職志願者を歓迎した。その志願者達のうち、二人が修道士になった。ヨゼフ津田季穂とジョン硫黄隆二である。年齢の差で津田氏は日本で最初のオブレート会員になった。彼は54歳だった。(津田氏の入会する以前の波乱にみちた生涯については別記されている。)その後1957年には、2人の神学生ミカエル山崎聰一郎、レオナルド乾盛夫がアメリカ東管区の修練院へ行き誓願をたてたあと、首都ワシントンのオブレート会の大神学校で神学の勉強に従事した。2年後硫黄修道士も神学生となり、同じ道を辿った。1962年6月24日、最初の日本人オブレート会司祭となった山崎神父は、田口司教から高知市中島町教会で司祭叙階を受けた。日本人オブレート会員として次に叙階式が執り行われた人物は、乾と硫黄の両神父だった。彼等は1964年6月14日、高松教区の田中英吉司教から徳島教会で司祭叙階を受けた。


東京都関町の神学校

海外からの宣教師達が日本に着いた初めの一歩から使徒職活動を開始するまで、彼等は日本語学校で1〜2年を費やしていた。日本語の難しさ、特に漢字を書くことなどの難しさから、聖職者として活動するための準備期間をより長くする方が賢明であることは明らかだった。叙階前の宣教師達を新しく日本へ派遣することに成功していたイエズス会やサレジオ会から学んだおかげで、管区長代行のギル神父は1954年総理事会に対して、大神学生達は終生誓願を行なった後なら日本への入国を認可すべきである、と提案した。

日本語学校の2年間コースと、上智大学に新設された教皇認可の神学部で3-4年勉強すれば、うまくいけば彼等は言語やその他にも地域の習慣、歴史、文化などに関してより深い技能を習得する機会を得ることが出来るだろう。大体に於いて総長レオ・デシャトレー神父はその提案を承認し、管区本部のアメリカ東管区では、1957年にこの計画を施行するにあたり最初の認可を与えた。東京都練馬区関町では、上智大学神学部に隣接して立派な鉄筋コンクリート造りの神学校が建てられた。この建物は1961年1月17日にレオ・デシャトレー神父によって奉献された。そこには、多い時には担当の神父や神学生や日本語の勉学の若い神父達を16入収容していた。聖職への召命が少なくなって「不作の年」を迎えると、この共同生活者も3人に減ってしまった。そこでこの建物を維持することが不可能になったので、1972年その土地を売却し、そこにあった共同体も隣の保谷市にある小さな家屋へと移転した。関町の神学校の院長は12年の間に3人変わった。パトリック・ヒーリ神父、ヨゼフ・ホフマンズ神父、レモン・ブルゴアン神父だった。


東京/保谷

保谷市への移転は1972年4月に行われた。当時、上石神井の上智大学神学部へ通う神学生の施設が保谷市に移った。彼等の使徒的活動の一部はこの地方小教区の手伝いと英語・理科・数学などを教える小さな塾の経営であった。この活動は関町にいた頃から続けられていた。オブレート会員のうち、一人が神学生の養成を担当していた。3人の神学生がこの育成を受けた。またこの施設は、東京地区(六本木・鎌倉)でその当時日本語を勉強し、日頃その学校で寝泊まりしていたオブレート会員が、週末や休日に戻ってくるための場所としても用いられた。若いオブレート会員達のこうした養成(他の修道会の育成者達との月例集会も当然含む)の他に、長年そこにいる人々は様々な聖務に従事していた。彼等の聖務には学校(上智大学、白百合大学、純心短大・高校・中学など)や外の団体の正規授業で教えることもあった。主に英語や宗教の授業を担当していた。また彼等の聖務の中で重要な位置を占めていたのは、社会的または宗教的な問題に関しての個人指導にあった。

神学校へ入学し、最初の誓願を行った志願者もいたことはいたのだが、次の日本人のオブレート会員が終生誓願を立てるのは1989年9月8日のレオ川口敏神学生だった。そして日本人が司祭叙階を受けるまでに、1964年から1993年までかかった。1993年3月29日、レオ川口敏は福岡司教区の松永司教から古賀教会で司祭に叙階された。ドミニコ八木信彦は修道士として1991年8月4日に終生誓願を立てた。


名古屋

東京オブレート会修学院の閉院に伴い、更なる志願者達のための場所は無くなった。その閉院当初は特に問題はなかったが、あの「不作の年」がその終わりを告げ始めると新しい志願者達が現れ、また次第に海外からも日本への新しいオブレート宣教師が任命され、再び修練院や修学院の必要性が出て来た。色々な可能性も熟考されたが、結局名古屋が選ばれた。

この決断のもととなったのは、神言会の経営する南山大学が今後の神父達を養成するのに必要な学部を提供してくれるということ、また一方で新しくやって来る外国人宣教師達の日本語学習に有効な日本語学校があるということ…などであった。

ロナルド・フランボア神父がその新しい修学院の院長に任命され、これから神学生になる2人と中島町教会の主任司祭のジョン・ケニ・マホ二神父らに見守られる中で、当時の管区長であったアンジェロ・シア二神父によって、就任式が行なわれた。この式は1985年9月8日午後3時に、高知の管区本部にある礼拝堂で行われた。同日午後4時、準管区に所属する多くの神父達、アジア・オセアニア地区長のデズモンド・オドネル神父やアジア・オセアニア地区のそれぞれの上長の代表者達の見守るなかで、これから神学生となるその2人が高知の中島町教会で、オブレート会員としての最初の誓いを宣言した。この2人の両親や親族そして多くの友人や高知市にある2つの小教区と赤岡教会から、それぞれの信者達がこの式典に出席した。

神学生達は、名古屋にある神言会経営の南山大学でその課程を履修することがすでに決まっていたが、彼等の居住する場所がまだ、名古屋にはなかった。伊丹小教区の信者であった故マリア久保キメの家族が、寛大にも彼等のために彼女の家を無料で提供してくれた。(彼女は1985年春に亡くなった。)その家は古かったけれども非常に快適な家だった。フランボア神父と2人の神学生は1985年9月17日の夕方、そこへ引っ越してきた。

この神学生達の一行は翌年の3月までその家に住むつもりだった。彼等は南山大学の入学試験の準備をするかたわら、名古屋市内での家探しも続行していた。聖心会の宣教師達は、名古屋市の彼等が所有する土地に小さな家を持っていた。彼等は以前そこを自分達の神学校の生徒達を収容するのに使っていたが、彼等には神学生がいなかったので、オブレート会が1〜2年その家を賃借りすることを許可してくれた。

1986年3月25日、これから神学生になる2人はオブレート会修道士一人と一緒に、自分達の身の回りの物を持って、伊丹から名古屋の新しい場所に引っ越した。翌日、彼等はそこの長であるフランボア神父と落ち合い、午後5時、聖心修道院の礼拝堂でミサに与った。これが名古屋市でのオブレート会の神学生達の最初のミサであった。聖心会が許可していたのは2年間だけだったので、家探しはさらに続いていた。1986年のクリスマス間近になって、立地的にも経済的にも好条件の場所が見つかった。オブレート会総本部と管区評議会から必要な許可を得たあと、1987年2月10日、契約がととのい、その家屋はオブレート会所有のものとなった。

市内でも良い立地条件を満たしているこの家屋は3階建の建物だった。その場所は神学校からほんの4駅離れた地下鉄駅からも近かった。しばらくの間は家屋の広さは居住者数に見合っていたが、次第にその数が増えてきた。ブルゴアン神父はフランボア神父の次の院長となった。海外から日本へ赴任する若いオブレート会司祭達が、日本語を勉強するために名古屋へやって来た。海外からの若いオブレート会司祭達や日本人の聖職志願者数の増加に伴い、家の許容量がいっぱいになってしまった。そこで再び居住区拡大の案が出された。だが現在はまだその場所で居住している。

今までずっと続行されているより大きな施設探しは、まだ満足のいく解決を迎えておらず、その活動は現在も続いている。現在名古屋修学院出身の最初のオブレート会神父は院長として任命された。

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